前回ご案内していた7月10日(日)の琴古流尺八「竹峯会(ちくほうかい)」の3年ぶりの演奏会。無事に終演しました。コロナ禍で演奏会は延期中止の嵐で、お弟子さんたちを含めて私にとっても今年は演奏会のリハビリ期間です。
今回演奏したのは「臼の声」「江の島曲」「須磨の嵐」というかなりメジャーな曲を3曲。5月の新発田市芸能音楽祭で今回の竹峯会の度胸試しとして同じ曲で出演した成果もあり、みんな落ち着いて演奏できていたように思います。
まずは今回の出演のお弟子さんが総出演した「臼の声(うすのこえ)」。曲についてちょっとご紹介しますね。ほら、今度お聴きになる機会があった時に、一緒に行った人にこれを話したら尊敬されますから!というか、このブログは大変アカデミックなものですから。(そういう事にしといてください。)
この曲は、もともと「薄衣」という地歌でしたが、山登松齢(やまとしょうれい)が山田流に作り直して、明治12年に自身の山登家三世家元の襲名披露の際に発表したものです。昔、名古屋のとある旧家の土蔵にあった臼を薪として燃やしたところ、とても良い香りがしたという話から、その「臼の香りを聞く」という意味で「臼の声」という曲名となったようです。歌詞はこの「臼」の縁語として、「薄衣」「薄紫」「薄紅葉」など「うす」のつく言葉を多く集めて、春夏秋冬の四季に配しています。曲は、前弾(まえびき)があって唄となります。季節の変わり目には合の手(唄のない器楽部分)がありますが、特に夏と秋の間の合の手は「六段の調」の初段を合わせます。(山田流はこういう遊びをよくやります。)全体的に荘重で華麗な雰囲気となっています。私の顔の大きさよ・・・(゚Д゚;)
この曲は、山田流箏曲の流祖である山田検校の作品の中で、「四つ物」という山田流最高峰の四曲の次に大切に扱われている「中七曲」の中の一曲で、1777年、山田検校が初めて作曲した作品だと言われています。江戸時代も人気の観光地であった江の島に参詣する道中の情景描写にはじまり、その後、歌詞に様々な貝の名前をダジャレのようにかけている、ややくだけた雰囲気の「貝づくし」があります。そして最後は、深沢の底なし沼に住み、悪行を重ねていた龍が、それに困る村人を助けるために現れた天女に一目惚れし、妻に迎えるために改心して守り神となった、という江島神社の縁起を唄っています。現在でも山田流箏曲で最も有名な曲の一つですが、1810年頃に出版された式亭三馬の『浮世風呂』でも、女湯の客が「まず、江の島、江の島」と大騒ぎをする描写があるほか、深川の芸者を詠んだ川柳にも「羽織の弁天 江の島を唄ってる」とあり、当時もこの曲が好んで演奏されていたことがうかがえます。私、バランス的にもう少し真ん中にいるべきじゃない?写真見てびっくりしましたの。
そしてもう一曲は「須磨の嵐(すまのあらし)」。
この曲は、明治30年頃に山登万和が作曲したものです。作詞者は不明ですが、「平家物語」や「源平盛衰記」に書かれている平敦盛の話をつづった内容です。前弾に続き「そもそも熊谷直実は征夷将軍源頼朝公の臣下にて」と歌いだします。その後平家の武者(敦盛)が登場し、源氏方の熊谷としのぎを削ります。この部分の合の手は、二人の組討ちを描写しています。その後、敦盛の気品のある姿や、熊谷が敦盛を討つ場面と、この曲の聞かせどころが続きます。「須磨の嵐に散りにけり」の後の手事は、吹雪のように散る桜花を描写し、敦盛の最期を比喩的に表現しています。そして熊谷が出家する心境を唄って、悲哀に満ちた武士の心を共感して終わります。
これはもう感情移入してしまうと唄うのが困難になる曲です。16歳の敦盛が「〽はやはや首を討たれよと」言って「〽西に向かいて手を合わす」んですよ。そして熊谷は自分の息子と同じ年齢の敦盛を「〽落つる涙はとどまらず、鎧の袖をしぼりつつ、是非なく太刀を振り上げて許させ給えとばかりにて、あえなく首(しるし)をあげにけり」とか唄うんですよ。ヤバいです。そんな試練を何とか乗り切りました。そして、やはり顔がデカい。
当日の楽屋でのどや顔写真。いつもは終演後に撮るのですが、みんな疲れ果ててしまっているので、今回は開演前に。
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