2011年10月18日火曜日

【日常】 白骨の御文章

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻のごとくなる一期(いちご)なり。さればいまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりという事を聞かず。一生過ぎやすし。
 
 今に至りて、誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。われや先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本のしずく、末の露よりも繁しと言えり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨となれる身なり。

 すでに無常の風来たりぬれば、すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装いを失いぬるときは、六親(ろくしん)眷属(けんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて、夜半(よわ)の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。

 されば人間のはかなき事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

 あなかしこ、あなかしこ。


これは、浄土真宗の中興の祖といわれる蓮如上人(れんにょしょうにん)の言葉で、人間のはかなさを諭したものです。

「されば朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。」
~人間は朝元気であったのに、夕方には死んで白骨となる身である~

実は、先週の金曜にお弟子さんが亡くなったんです。

最後に会ったのは、今月4日の稽古日。来月3日の演奏会に向けてお稽古しました。以前体育の先生をされていたせいか、82歳とは思えない若さで毎回稽古を楽しみにいらっしゃっていました。

それが、8日の朝意識不明で発見されて病院に運ばれたものの、意識は戻らず。脳幹出血で手の施しようがなかったそうです。いわゆる脳死状態。11日の稽古の前にお見舞いに行ったのですが、当然ご本人はなにもわからず、人工呼吸器でかろうじて呼吸しているだけ。

「次第に心臓が弱って、そう遠くないうちに止まってしまうだろう。」
旦那さんがそうおっしゃっていました。

そして先週の金曜、とうとう亡くなってしまいました。

8月2日が誕生日だったのですが、ちょうど稽古日と重なったので、ちょっとしたプレゼントをしたらすごく喜んでくださっていた姿、「来週は皆さん合同でのリハーサルですよ」「一生懸命練習してきます」とおっしゃって普段通りに帰っていった姿が目に浮かびます。

今の時代、82歳はまだ若い。そして翌朝普通に起きるつもりで寝て、そのまま目覚めることがない。まったく人の命というものははかないものだと痛感します。予期せぬ事が起こり、それが生きがいにもなり、時には取り返しのつかないものにもなる。

20代だから大丈夫、30代だから大丈夫、なんていう事はない。
特に今年は災害が多くて、あまりにも多くの命が犠牲になった年だ。

一日一日を精一杯充実させて生きていかないと。


平成16年に作曲した「回向(えこう)」という曲です。
親鸞聖人の和讃を歌詞にしています。

生死の苦海ほとりなし 久しく沈める我らをば 弥陀の悲願の船のみぞ 乗せて必ず渡しける
たとい大千世界に 満てらん火をも過ぎ行きて 仏の御名を聞く時は 永く不退にかのうなり  
五十六億七千万 弥勒菩薩は年を経ん 真の信心得る人は このたび悟りを開くべし

合掌



武藤松圃HP
http://www.symphonic-net.com/mutoshowho/

2 件のコメント:

  1. 今生きているのは奇跡。
    しかも健康でいられるなんて、こんな幸せなことはないですね。
    一生懸命ことに取り組み、愛すべき人を愛して、悔いの無い毎日にしなければ。
    甘いこと言ってられませんね。
    私たちも毎日般若心経唱えて、考えながら過ごしてます。

    合十(合掌)

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  2. >atsukolinさん
    般若心経なんですね。
    家は浄土真宗です。いままであまり宗教には関心がなかったけど、ここ数年はちょっと救いを求めていたりします。
    多分年のせい(笑)

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