2020年4月30日木曜日

【ちょっとお聴きよ山田流】第二回「熊野」

今日は4月の晦日ですね。毎日、今日は何月何日の何曜日か?というのをしっかり確認しないと、日付も曜日もあやふやになってしまいます。でもこれって認知症のチェックに使われる項目でもありますよね。毎日家にいて、毎日これといって変化のない生活をしていると、危険です。私の年齢でさえ「????」と思うことがあるのですから、年かさだと思われる方々は気を付けてくださいね。

ちなみに上のリンクのチェック、私は14点でした。


さて、今日は【ちょっとお聴きよ山田流】の二回目です。3週間前の第一回では「桜狩」をご紹介しました。第二回は「熊野」です。作曲は流祖の山田検校です。

「くまの」ではなく「ゆや」と読みます。

内容をごく簡単に申し上げます。

主人公は「熊野」という女性です。熊野の母親は重い病で、いつ息を引き取ってもおかしくない状況です。熊野は主人である平宗盛に暇乞いをしていますが、許してくれません。それは、一緒に清水寺に花見に行きたかったから。(今であれば即離婚の案件ですな)

まず、この背景が分からないと、この曲を聴いてもなんとも面白くありませんし、物語の良さ、あわれも感じられませんので、まずここを押さえておきましょう。
演奏する側がこれを知っていないなんてのは、論外です。(いない、とは思いますが・・・)


そんな重い気持ちで熊野は宗盛とともに清水寺へ行きました。
そこからの歌詞をちょっと現代語にしてみると・・・

清水寺にて
〔熊野〕殿様、お酌をいたしましょう
〔宗盛〕おお熊野よ、我はそちの舞が所望じゃ
(熊野の気持ちを宗盛は理解しているのかしら・・・)

〔熊野〕あらあら、急に雨が降ってきて桜の花を散らしていおります。なんと無情な雨でしょう。降っている雨は、私の涙のようでございます。雨で散る桜を惜しまない人はおりません。(短冊にさらさらと詠んだ歌を書く)
〔宗盛〕なに意味深なことを申しておるのじゃ。それを見せてみよ。
〔熊野〕「いかにせん 都の春は 惜しけれど 慣れし東の 花や散るらん」(どういたしましょう、殿とご一緒している都の桜の花も惜しいのですが、住み慣れた地の花(私の母の命)も今にも散ろうとしている)

〔宗盛〕もっともなことだ。申し訳ない。すぐに暇をやるから母のもとへ帰りなさい
〔熊野〕え、暇を?
〔宗盛〕そうだ。早く、早く帰りなさい

そんなやり取りがあって、熊野はその場から東の国へ下っていきます。
熊野が母の死に目にあえたかどうかは・・・


この曲のメインは後半のこの部分です。

前半は何が唄われているかというと、平家物語の冒頭をもとにした、清水寺の情景です。そして、情景描写は「また花の春は清水(きよみず)の~春も千々の花盛り」で終わり、上記の本題に入っていくわけですが、その舞台転換というか気分を変えるために「合の手」(唄のない器楽部分)が入ります。

それがこれです。なんともいい演奏(自画自賛)。いやいやなんとも美しい。熊野、宗盛それぞれの揺れ動く気持ち、そして満開の清水寺の桜、それがはらはらと散る様子が見事に描写されています。
前回の桜狩同様に私の演奏を重ね録音しています。タテ(曲の進行を担い、特別な旋律を演奏する人)のパートに三絃(三味線)を重ね、それを流して主旋律を弾いている映像です。


うーーーーーーーーーん、いつ聴いても、いつ弾いても、何度聴いても、何度弾いても惹き込まれます。

ちなみに全曲演奏すると22~23分です。
機会があったら録画してみましょう。

熊野について興味を持った方はこちらをご覧ください。


明日から5月。次回の【ちょっとお聴きよ山田流】からは初夏や夏の曲をご紹介します。


それでは皆さまご機嫌よう。







0 件のコメント:

コメントを投稿